Yearly Archives: 2019

【楽しんでけろ!山形映画祭】「映画祭チケットをお得にゲットしよう!」

映画祭と山形滞在を楽しむオススメ情報をお届けするシリーズ【楽しんでけろ!山形映画祭】。

第3回のテーマは「映画祭チケットをお得にゲットしよう!」。自分の滞在予定に合ったお得なチケットはどれだろう?という視点で、チケットの種類やオススメ情報をまとめてみました!

1. いつ・どこで買えるの?

山形国際ドキュメンタリー映画祭2019のチケットは、7月4日10:00より販売開始!

チケット販売サービス YIDFF SHOP(オフィシャルショップ)・ チケットぴあ で購入できます。
それぞれ販売期間に限りがありますので、後述のチケット情報リストをご確認ください。

2.どんな種類のチケットがあるの?

チケットの種類と料金

チケットの買い方いろいろ

たとえば、開催期間中の3連休で映画祭に参加する方は、1日3本×3日間=9本作品を観るとします。その場合、10回券かフリーパスがおすすめですが、フリーパスには映画祭公式カタログや30周年記念グッズなど、おまけがついている分お得かもしれません。

公式パンフレットをご購入する予定で8本以上観るなら、フリーパスを購入する方がオススメです。

また、何人かで参加する方は、10枚つづりの回数券を前売りで購入してお友達と分け合って使えば、1本750円で作品を観ることができますね!

※チケット販売の詳細情報については公式WEBサイトをご確認ください。
https://www.yidff.jp/2019/info/19tickets.html

3. オススメ情報!

今年はフリーパスに30周年の記念グッズがついてくる!

今年は山形国際ドキュメンタリー映画祭が始まってから30周年というアニバーサリーイヤーです。
それを記念して制作されるグッズがフリーパス限定でついてきます!(記念グッズの詳細は7月4日にお知らせします。)その他、これまでの映画祭以上に様々なグッズも登場予定。どうぞお楽しみに!

フリーパスは1次先行販売で買うのが一番オトク!

開催期間中の3連休など数日間の滞在でも、10作品前後鑑賞するなら、断然フリーパスがオススメ。さらに1次先行販売の期間中にフリーパスを購入すると、他の期間よりも1,000円以上お得になるんです。

YIDFF SHOPでチケットやグッズを事前に買える!

74日にオープンするネットのオフィシャルショップ「YIDFF SHOP」では、チケットと同様にグッズの事前購入も可能に。様々な決済方法でお買い物を楽しむことができます。こちらも今後の情報配信をお楽しみに!

YIDFF SHOP (7/4オープン)
https://yidff.theshop.jp


フリーパス購入の方は合わせて宿泊先の確保も!

今年は映画祭が30周年記念開催となり来場者の増加が予想されることや、山形市内で映画祭以外の大きなイベントが開催されることによって、例年以上に宿泊予約が取りづらい状況が予想されます。

チケット販売開始とともに、会場周辺の宿泊施設や、新幹線と宿泊先がセットになった「GoGoパック」、高速バスや空路のご案内が公式サイトにアップされますので、早めのご予約をお願いします!(映画祭で確保している宿泊施設数にも限りがございます。)

宿泊予約のコツやオススメの滞在エリア情報についてまとめています。

http://www.yidff-live.info/2405/ (前編)
http://www.yidff-live.info/2417/(後編)

今後も、宿泊などの便利でお得なサービス情報をご紹介していく予定です!

終わりに

ご自身に合ったチケットが見つかったら、宿と合わせてお早めの購入がオススメです。

映画祭に関するお得なサービスのご案内や、チケット・グッズの販売、プログラムについてなど、最新情報が今後も続々と配信される予定です。映画祭公式WEBサイトfacebooktwitterInstagramドキュ山ライブ!を、ぜひチェックしてみてくださいね!

ではでは、次回もどうぞ見てけろな〜!

ライター:藤 あかね

【V.V.】ボランティアボイス① 人と作品との出会いがつながる山形映画祭

寺田さんが会場スタッフを担当したフォーラム山形 (写真提供:寺田悠輔)

【V.V.】ボランティアボイス① 人と作品との出会いがつながる山形映画祭

国際映画祭の雰囲気をいちばん近くで味わえるのがボランティアスタッフ。【V.V.】ボランティアボイスでは、実際に参加された方にお話を伺い、映画祭ではどんな経験ができるのかを少しずつお伝えしていきます。1回目は、ポニーキャニオンでアニメーションや実写映画のプロデューサーとして活躍している寺田悠輔さんです。

_ボランティアに参加したきっかけを教えてください。

大学時代にスタッフとして参加していた大阪の映画祭で山形映画祭のスタッフと知り合ったのがきっかけです。当時から映画や映画館、映画祭、と「映画」に関係することに興味があったので、有名な山形映画祭の雰囲気を感じてみたいと思い応募しました。

_仕事内容はいかがでしたか?

コンペティション部門「アジア千波万波」の上映会場であるフォーラム山形で、会場運営全般を担当しました。お客さんの列整列、場内誘導、モギリのほか、上映後の質疑応答の進行など、いろいろです。僕が参加した2011年は、フォーラム会場では確か1日15作品ぐらいの上映が連日続いたと記憶しています。お客さんの入れ替えだけでもかなり大変でしたが、その分手伝ってくれた他のボランティアの方や、パスを持って何度も足を運んでくれたお客さんと映画の話をする時間もあり、映画好きとして凄く有意義な時間を過ごせました。

 

案内表示の作成なども会場スタッフのお仕事。あたたかい手作り感 (写真提供:寺田悠輔)

 

_寺田さんは現在、アニメーションや映画のプロデューサーを担当されているそうですが、仕事に役立つ経験などはありましたか?

大学卒業後、会社に入ったばかりの頃は宣伝作業の一環としてイベント運営の仕事も多かったので、映画祭での会場運営経験はそのまま役に立った部分が多々ありました。また前回2017年の映画祭では、当時プロデューサーを担当していた『あさがおと加瀬さん。』というアニメーションの、企画上映&トークイベントを開催して頂きました。アニメーション表現とはいえ、現実に繋がっているような作品作りをしたいと考えていたので、「映画と現実がどう重なるか」というドキュメンタリートークを一緒にさせて頂けたのは非常に有り難く、貴重な機会でした。

 

©2018 高嶋ひろみ・新書館/「あさがおと加瀬さん。」製作委員会

 

_仕事の面でも映画祭とは継続的に関わっていらっしゃるんですね。

そうですね。仕事を始めても何度かご縁があり、ご一緒しています。同じく2017年に瀬々敬久監督の実写映画『ヘヴンズ ストーリー』のBlu-ray/DVDを制作させて頂いたのですが、この作品も山形映画祭のスタッフの方経由でプロデューサーの方と知り合い、弊社にパッケージ化を預けて頂いたという経緯がありました。「映画の仕事がしたい」と思って学生時代に映画祭の世界で働いていたので、実際そうした仕事に就いた現在でも山形映画祭とご一緒できていることを、非常に嬉しく思っています。

 

主にアジア千波万波の上映会場となるフォーラム山形の外も会場スタッフで飾り付け (写真提供:寺田悠輔)

 

_今後、映画祭に期待することがあったら教えてください。

ドキュメンタリー映画祭というと固く聞こえがちですが、そんな大仰なものではなく「他者や周囲と向き合うためのヒントが見つかる場所」なのではないかと思っています。また、個人的には高校生の「ドキュ山ユース」の皆さんの活動が、更に盛んになっていくのを楽しみにしています。フォーラム山形の会場運営では、高校生の皆さんに凄く助けられました。映画祭きっかけで映像の世界に入ってくる方もきっといると思うので、そんな皆さんといつか一緒に仕事ができることを楽しみにしています。

_ありがとうございました!

 

■Profile
寺田悠輔(てらだゆうすけ)さん(29歳)
東京都在住。アニメーション・映画プロデューサー。ポニーキャニオン所属。『あさがおと加瀬さん。』『フラグタイム』プロデューサー。『少女邂逅』『ヘヴンズ ストーリー』パッケージプロデューサー。趣味は映画鑑賞と読書。好きな女優は梶芽衣子と岡田茉莉子。

これからボランティアをしたい方へメッセージ

「映画に詳しい人と映画の話をしたい」という気持ちだけで、僕は映画祭の手伝いを始めました。ボランティアというと少しハードルが高いように聞こえるかもしれませんが、最初はそのぐらいの動機でも良いと思います。映画に愛を捧げる人にとって思い出深い体験になるのはもちろんですが、そうでない方にとっても、きっと「映画がこんなに生活や人生を彩れるんだ」ということを知る素敵なきっかけになるのではないかと思います。

寺田悠輔

映画祭ボランティアの詳細はこちら

 

©2017 「少女邂逅」フィルムパートナーズ

 

山形国際ドキュメンタリー映画祭 2019 ボランティア大募集!

山形国際ドキュメンタリー映画祭 2019 ボランティアを募集中です!

ひと味違った映画祭の楽しみ方のご提案。山形国際ドキュメンタリー映画祭にボランティアとして参加してみませんか?

毎回映画祭を開催するたびに、世界中から訪れるゲストや観客のみなさんから絶賛されているのが、ボランティアさんによるあたたかい手作り感覚です。国際映画祭の雰囲気と、新しい出会い、楽しい交流。みなさんの参加をお待ちしています。

今年も一緒に映画祭を盛り上げていきましょう!

多彩なボランティアセクションから自分にあった関わり方を選んでみましょう!

たとえば……

【会場・市民賞】
会場の飾り付け、チケット販売、場内整理・誘導など、たくさんのお客さんをあたたかく迎える大事なお仕事です。国内外から来るたくさんの観客やゲストに出会えます。映画祭の雰囲気を味わう絶好の機会! 外国語ができる方大歓迎です!
また、国際審査員が決める賞とは別に、観客の投票によって決められる市民賞の運営も行います。受賞監督からの笑顔のプレゼントが待っています!

【ゲストサポーター】
来形される全てのゲストや来場者をあたたかく迎え、滞在をサポートするお仕事です。語学が得意な方、習得した外国語を活かしてコミュニケーションしたい方におすすめ。言語は問いません。日本語しか話せなくてもOK! ゲストとのすてきな出会いが待っていますよ。

【東京ゲストサポーター】
成田空港での出迎え、東京駅での電車の乗り継ぎなど、海外ゲストの東京-山形間の旅をサポートするお仕事です。「語学力を生かしたい」「一日でも映画祭の手伝いがしたい」という方におすすめです。

【広報】
山形映画祭の開催を多くの方に広めるお仕事です。ひとくちに広報といっても、ポスター掲示から映画祭リポート、コラムの作成まで形はさまざまです。期間中は国内外から集まるメディア関係の方々のサポートも行います。映画祭を盛り上げるべく、一緒に広報していきましょう!

【デイリー・ニュース】
映画祭期間中に発行される公式日刊紙の取材・編集のお仕事。あなたがゲストや監督にインタビューして書いた記事が紙面を飾ります。監督が作品に込めた思いを直に感じ取ることができますよ。

【写真・ビデオ記録】
質疑応答やシンポジウムなどを写真やビデオで記録します。広報やデイリー・ニュースと連携した活動です。映画祭の楽しさを伝える、今年のベスト・ショットを狙って下さい。

【香味庵クラブ】
毎回大好評の交流の場、夜のメイン会場「香味庵クラブ」を運営します。「香味庵で会いましょう」を合言葉に世界中の映画好きがここを目当てにやってくるとか。夜は任せて! という方におすすめ。

【司会進行】
メイン会場での上映進行。ステージでのアナウンス、司会進行を行うお仕事です。上映後の質疑応答の司会進行は、毎回ボランティアさんが行っているんですよ。監督と仲良くなる大チャンスです。

【同時通訳機操作】
映画祭で上映される、日本語字幕のない映画に専用機器で同時通訳音声をつけるお仕事。簡単な仕組みなので、一度レクチャーを受ければ操作できます。映画上映を陰で支える、大事なお仕事です。

「やってみたいけど、はじめてだから不安……」そんな時はボランティア説明会へどうぞ!

山形国際ドキュメンタリー映画祭のボランティア活動を詳しく紹介する「ボランティア説明会」を開催します。各ボランティアセクションの詳しいお仕事内容、関わっていただく期間など、映画祭事務局スタッフが個別に相談にのります! 東京、仙台での開催も予定しておりますので、その他の開催が決定したらまたご案内いたします。

ボランティア説明会

山形説明会
●7月10日[水]15:00、19:00(2回)【終了】

[会場]ファーラ(霞城公民館北隣、山形市総合福祉センター)5F 視聴覚室+研修室2

●7月27日[土]15:00、19:00(2回)【終了】
[会場]山形市総合福祉センター 3F 会議研修室2(霞城公民館北隣)

●8月8日[木]15:00、19:00(2回)【終了】
[会場]霞城セントラル 23F 高度情報会議室(山形駅西口)

東京説明会
●8月7日[水]11:00、15:00、19:00(3回)【終了】
[会場]山形国際ドキュメンタリー映画祭東京事務局
[東京都新宿区愛住町22 第3山田ビル6F(都営新宿線 曙橋駅A1出口左折徒歩2分)]

●8月28日[水]14:00、17:00(2回)
[会場]東京藝術学舎(外苑キャンパス)
[東京都港区北青山1-7-15(JR総武線「信濃町」徒歩5分/東京メトロ半蔵門線・銀座線・都営地下鉄大江戸線「青山一丁目」徒歩10分)]

仙台説明会
●7月5日[金]18:30(1回)【終了】
●8月2日[金]18:30(1回)【終了】
[会場]東北大学 川内キャンパス[A7](仙台市地下鉄東西線 川内駅)
    川北合同研究棟101カフェラウンジ
[共催]東北大学学友会 映画部(映画部 短編映画上映あり)

山形大学説明会
●7月18日[木]16:30(1回)【終了】
[会場]山形大学 小白川キャンパス 基盤教育棟2号館211教室
[共催]山形大学人文社会科学部 山崎彰研究室

※1時間程度の説明会です。どの回も内容は同じです。事前申し込みは不要です。

※これまでボランティアで参加した経験のある方はメールでの登録も受け付けています。

※説明会に参加できないけれども、ボランティア登録してみたいという方もメールにてご相談ください。

※8月8日の説明会は駐車券が発行されません。お車でお越しの方は7月10日と7月27日の説明会(無料駐車場あり)をご利用ください。8月8日の会場は山形駅に隣接しておりますので、電車をご利用になられる方はこちらの日程にてご参加いただくと便利です。

 

[問い合わせ]phone: 023-666-4480(映画祭山形事務局)
e-mail: info@yidff.jp

 

6月28日の金曜上映会〈YIDFF 2017 アンコール 15:航跡〉

6月28日の金曜上映会〈YIDFF 2017 アンコール 15:航跡〉

前回の山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映された作品から選りすぐりをお届けするアンコールシリーズ第15弾。今回はジョン・ジャンヴィト監督の『航跡(スービック海軍基地)』です。1991年にフィリピンに返還された、ルソン島スービック湾の米海軍基地。長く米軍管理下にあった湾周辺は、返還後も深刻な環境汚染被害をもたらし続けていました。長い作品ですが、苦難にあえぐ人々の声にじっくりと耳を傾け、植民地支配とその弾圧の歴史を静かに告発する傑作です。ぜひ、前後編合わせて、ご体感ください。

『航跡(スービック海軍基地)』 14:00-(1回上映)

『航跡(スービック海軍基地)』

山形国際ドキュメンタリー映画祭 2017 インターナショナル・コンペティション上映作品

監督:ジョン・ジャンヴィト/アメリカ、フィリピン/2015/前編135分+後編132分

作品紹介:

ルソン島スービック湾にあった米海軍基地は、1991年のフィリピン上院決議に基づき、フィリピンに返還された。しかし、長く米軍管理下にあった湾周辺は、基地返還後も残留化学物質や重金属類、石綿、PCBなどに起因する深刻な環境汚染被害をもたらし続けている。YIDFF 2011上映の『飛行機雲(クラーク空軍基地)』に続く本作は、10年以上に及ぶ調査により、公害に苦しむ住民の実態をまざまざと描き出すとともに、住民たちを支援し、被害を告発するNGOの活動を共感をもって追いかける。スペイン、アメリカによる植民地支配の下での人々の苦難と抵抗、弾圧の歴史を凝視し、人々の声に耳を傾ける稀有な映像体験。

 

『航跡(スービック海軍基地)』

監督のことば:

2006年夏、私はボストンを飛び立ち、初めてマニラを訪れた。渡航の目的は、劇映画のための取材だった。映画のごく短い一部を、フィリピンで撮ろうと考えていたからだ。しかし、現地に着いて最初の数日で経験したことをきっかけに、フィクションを撮るという計画は完全に消えた。それから私は、米軍基地の跡地で暮らす多くの人々が今も直面している苦難を世界に伝えるため、長年にわたる作業に取り掛かることとなった。フィリピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地があった周辺では、汚染物質による環境破壊が現在も終わっていない。

この『航跡(スービック海軍基地)』は、ドキュメンタリー二部作『For Example, The Philippines(たとえばフィリピンでは)』の後編にあたる。前編の『飛行機雲(クラーク空軍基地)』は2010年に公開された。二本合わせて9時間に及ぶこのドキュメンタリーは、米軍基地の跡地における環境汚染問題を軸に、歴史の忘却、植民地支配、野放しの軍国主義がもたらす結果といった問題を考察している。シネマ・ヴェリテの手法と、フィリピン人被害者やその家族、環境活動家、地域の活動家に実際にインタビューした映像を織り交ぜつつ、米比戦争の時代の古い写真、パルチザンの歌、歴史資料、風景写真を組み合わせたふたつの映画は、いずれも、この人道・環境危機の実態と、その解決策の複雑さが理解できるような作品を目指している。

ジョン・ジャンヴィト

 

[会場]山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー試写室
[料金]鑑賞会員無料(入会金・年会費無料)
[主催]認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭
[問い合わせ]電話:023-666-4480 e-mail:info@yidff.jp

【楽しんでけろ!山形映画祭】「山形映画祭ってどんなイベント?」

映画祭と山形滞在を楽しむオススメ情報をお届けするシリーズ【楽しんでけろ!山形映画祭】。
第2回のテーマは「山形映画祭ってどんなイベント?」。そもそも映画祭ってどういう場所で、どんなことを楽しめるの?という視点で、山形映画祭ならではの魅力をお伝えします!

1. 山形国際ドキュメンタリー映画祭とは?

山形市の市制施行100周年事業として1989年にスタート。
日本ドキュメンタリー映画界の草分け的存在である小川紳介監督の尽力のもと、アジア初のドキュメンタリー映画に焦点を当てた国際映画祭となりました。

世界中から様々なドキュメンタリー作品と作家が集まる、自由で独立したノン・フィクション映画製作のための新しい場を生み出そうと取り組んでいます。近年は作家のバックグラウンドもより多様化し、ドキュメンタリーの表現の可能性は驚くほど広がっています。

そしてついに、2019年は16回目(隔年開催)、30周年のアニバーサリーを迎えます!

ひと足早く世界の注目作が見られる!

世界の最新長編ドキュメンタリー映画を対象とする「インターナショナル・コンペティション」、アジアの活きのいい作家と作品を紹介する「アジア千波万波」の2つのコンペ部門には、毎回2,000本を超える作品が世界中から集まります。

厳正な予備選考を経て選ばれた作品が上映されますが、その中には日本初公開作品はもちろんのこと、なかには世界初公開作品も含まれています。映画祭期間中には国内外の映画関係者が大勢詰めかけるので、山形での上映をきっかけに日本での一般公開が決まることも。

山形映画祭はひと足先に注目作を観ることができる貴重な機会とも言えるわけですね。

アカデミー賞公認映画祭へ!

今後インターナショナル・コンペティションの大賞と、アジア千波万波の最高賞に輝く2作品が、各年度のアカデミー賞に無条件でエントリーすることが可能になりました。

2. 何が観られるの?

山形映画祭では制作地域や作家、テーマを絞った特集プログラムを数多く企画しており、その上映作品はおよそ200本にも!

●インターナショナル・コンペティション
世界各地から応募された中から15作品を上映。(7月4日発表予定)

●アジア千波万波
アジアの新進ドキュメンタリー作家の作品を紹介。(7月下旬発表予定)

●特集プログラム・イベント(8月発表予定)
これまで台湾、沖縄、東欧、アラブ、ラテンアメリカ、アフリカなどを取り上げ、それぞれの国や地域が直面しているアクチュアルな問題にスポットを当ててきました。

3. 山形映画祭の”ここが良い!”

映画祭ゲストと交流できる!

上映後のトークセッションやワークショップなど、作家と観客が気軽に交流できるイベントがいっぱい。映画祭ゲストとファンの交流の場「香味庵クラブ」では、作家・観客・スタッフが皆でテーブルを囲み、映画について夜まで語り合うことも。

街全体が上映会場となり、フェスのように楽しめる!

山形市中心地の映画館・公民館・市民会館・美術館など、街全体が上映会場に。城下町の趣が残る街を練り歩きながら、様々な場所で映画祭関連のイベントやグッズ購入、グルメなどを楽しめます。

足を伸ばして観光も楽しめる!

映画祭が開催される山形市周辺には、「山寺」「羽黒山」「蔵王温泉」など、世界中から観光客が訪れる人気のスポットがいっぱい。映画祭の合間に温泉でリラックスしたり、自然の中で体を動かしたり、文化財を見て学んだり。山形ならではの自然・歴史・文化も存分に楽しむことができます!

終わりに

「なんだか難しそう」と思われがちなドキュメンタリー映画祭ですが、笑いあり涙ありの多種多様な作品に出会い、街を挙げての様々なイベントを楽しみ、人々と映画や人生を語り合う。そんな特別な体験がぎゅっと詰まったイベントなんです。

さらに詳しく知りたい方は、以下のサイトもぜひチェックしてみてくださいね。

山形国際ドキュメンタリー映画祭公式HP
https://www.yidff.jp/home.html

映画祭100の質問
http://www.yidff-live.info/100questions/

次回もどうぞ見てけろな〜!

ライター:藤 あかね

【楽しんでけろ!山形映画祭】「どこに泊まる?(後編)」


映画祭と山形滞在を楽しむオススメ情報をお届けするシリーズ【楽しんでけろ!山形映画祭】。前回は「どこに泊まる?」というテーマで、映画祭が開催される市街地周辺の宿泊情報と宿を確保するコツについてお伝えしました。
前編記事はこちら

今回は、市街地から少し足を伸ばして、観光も楽しめるオススメの滞在エリアをご紹介します!

穴場がいっぱい!山形市周辺のオススメ滞在エリア

蔵王温泉
〈アクセス〉バス:45分 / 車:35分

山形市南東部、蔵王連峰の西麓にある温泉街。蔵王温泉はおよそ1900年の歴史を持つ古湯です。国内有数の規模の蔵王温泉スキー場を併設。旅館・ホテル・ペンション・民宿等もあり、東北最大級のマウンテンリゾートとして有名です。古き良き温泉街の町歩きをはじめ、トレッキングやロープウェーで頂上からの絶景を楽しむこともできます。

天童
〈アクセス〉電車:20分 / 車:30分

山形盆地のほぼ中央部に位置する山形県天童市は、いで湯(温泉)と将棋駒の街として有名。日本一のラ・フランスの里でもあり、その他さくらんぼ・リンゴ・桃などのフルーツを味わえます。春の人間将棋・初夏の紅花まつり・花笠で彩る夏祭り・冬の平成鍋合戦、雛祭りなど、季節のお祭りも充実しています。

上山
〈アクセス〉電車:15分 / 車:30分

山形県の南東北エリアの中間に位置し、山形県内はもちろん、宮城・福島・新潟などの観光地へもアクセス抜群。かみのやま温泉は、城下町・宿場町・温泉町が一体となる全国的にも珍しい温泉地です。街の中心にそびえる上山城や武家屋敷などが立ち並ぶ城下町は、歴史と文化を感じる絶好の町歩きスポット。

寒河江
〈アクセス〉電車 / 車:25分

県内随一のサクランボの産地として知られる寒河江市。山形県のほぼ中央に位置し、日本海側と太平洋側とを結ぶ山形自動車道が市内中心を通っています。映画祭が開催される時期は、車窓から東北ならではの美しい田園風景が見られるかも。東北屈指の仏教文化の至宝といわれる本山慈恩寺や、旧石器時代の遺跡巡りもオススメです。

米沢
〈アクセス〉電車:50分 / 車:55分

山形県最南端の都市で、戦国武将・上杉謙信を生んだ上杉家ゆかりの地として有名な城下町。米沢城跡を中心に戦国時代に思いを巡らす町歩きはもちろんのこと、米沢牛や味噌入りのいも煮などグルメ観光も楽しめます。秘境・秘湯・名湯揃いの米沢八湯巡りやトレッキングもオススメ。

新庄
〈アクセス〉電車:1時間10分 / 車:1時間15分

山形市の北、最上川中流域に位置する都市。江戸時代は新庄藩の城下町、羽州街道の宿場町、最上川水運の主要港として栄えました。松尾芭蕉、正岡子規・齋藤茂吉など俳人・歌人が残した多くの句・短歌や、最上地域から生まれた才能あふれる漫画家たちのゆかりの品々も見ることができます。古今の情緒豊かな文化に触れる観光スポットです。

仙台市(宮城県)
〈アクセス〉バス:1時間10分 / 電車:1時間15分 / 車:1時間
※バス始発・終了時間
始発(山形→仙台:平日 5:50・土日 6:20)(仙台→山形:平日 6:10・土日 6:30)
終了(山形→仙台:平日土日 21:50)(仙台→山形:平日土日 22:30)

県境を挟んで、山形市と隣接する宮城県仙台市。東北最大の都市でもある仙台市なら、宿泊施設の選択肢もぐっと広がります。山形市と仙台市をつなぐバスは5分〜20分おきに出ているため、行き帰りの時間にあまり縛られず山形滞在を楽しめます。自然豊かな山形で映画祭や観光を満喫したあとは、仙台の繁華街に繰り出して買い物やご当地グルメを楽しむ。そんな楽しみ方も魅力です。

※各交通の所要時間は、おおよその時間を記載しています。

おわりに

さて、滞在のヒントはあったでしょうか?映画祭はもちろんのこと、各地域ならではの魅力が詰まった山形で、ご自身のスタイルに合わせた滞在をカスタマイズしてくださいね。今後も、映画祭のピックアップ情報と山形滞在を楽しむためのオススメ情報を不定期で配信していく予定です。みなさんどうぞ見てけろな〜!

ライター:藤 あかね

【楽しんでけろ!山形映画祭】「どこに泊まる?(前編)」

みなさん初めまして。山形市内のゲストハウスで移住体験をしながら、山形国際ドキュメンタリー映画祭2019のスタッフとして働く藤です。
映画祭をはじめ、山形には「泊まる」「食べる」「遊ぶ」「交流する」どれをとってもここにしかない魅力がいっぱいです!せっかく山形に足を運ばれるなら、映画祭も山形滞在も存分に楽しんで欲しい。そんな想いを込めて、映画祭のピックアップ情報と山形滞在を楽しむオススメ情報を発信していきます。

第一回のテーマは「どこに泊まる?」。滞在の第一歩は宿の確保。山形市内には複数の宿泊施設があるものの、映画祭期間中の予約は困難な状態に。しかし実は、ちょっとした工夫があれば大丈夫なんです。今回は、宿泊先確保のコツとオススメの滞在エリアを合わせてご紹介します!

1. 今年はさらに宿が取れない状況に?!

今年は映画祭開催の期間中(10月10日〜17日)の3連休に、山形市内では映画祭以外のイベントも開催予定。なんと総勢800人近くの宿泊者が全国から訪れるとのこと。例年以上に宿の確保は困難だと予想されます。すでに6月時点で「ホテルが取れない!」なんて声も耳にするほど。

2 山形市街地周辺の宿泊施設の種類と特徴

旅館
・市街地から離れた場所に多い
・温泉や豪華な食事付きの施設が多い
・宿泊料金がホテル、ゲストハウス、民泊よりも高い場合が多い

ホテル(主にビジネスホテル)
・市街地や駅近くにあることが多く、映画祭へのアクセスが容易
・食事付きや素泊まりなど宿泊プランが選べる場合が多い
・24時間対応のサービスが充実している

ゲストハウス
・低予算型&小規模の宿泊施設
・相部屋やドミトリールームの場合が多い
・宿泊客同士の交流の場がある場合が多い
(映画祭や旅の話で盛り上がる、筆者一押しの宿泊スタイルです!)

民泊
・小規模の宿泊施設
・オーナーはゲストと同居し設備を共有する場合が多い
・朝食が提供される場合が多い

ゲストハウスと民泊は市街地周辺に数件しかなく、お部屋の数も限られているため、お早めのご予約がおすすめです。

3 宿泊先予約はネット→電話が有効

スケジュールが決まれば、何はともあれ早めの予約です。ところが、ホテル探しの総合サイトやアプリ上では希望日が埋まっていることも。しかし、諦めるのはまだ早い!

・ホテルのホームページから電話で直接申し込む

・複数の滞在先に日数を分けて予約
(○日〜○日はホテルA、○日〜○日はホテルB…など)

・キャンセルで部屋が空くのを待つ
(キャンセル料が発生する直前の宿泊22日前や4日前が狙い目)

まずは時間を問わず手軽なネットで早めに空室状況をチェックしてみて、すでにいっぱいになっていた場合は宿に直接電話してみるのがオススメ。キャンセルや予備の宿泊枠など、ネットよりも早くその場で調整してもらえるかもしれません。

次回(後編)は市街地から少し足を伸ばして、観光も楽しめるオススメの滞在エリアをご紹介します!

ライター:藤 あかね

6月14日の金曜上映会〈波瀾の旅路〉

6月14日の金曜上映会〈波瀾の旅路〉

今回は〈波瀾の旅路〉と題して、印象的なふたりの女性の人生を見つめます。ポルトガル生まれブラジル育ちの伝説的パフォーマー、カルメン・ミランダの人生と栄光と苦悩を綴る『カルメン・ミランダ:バナナが商売』。プラハに生まれ、ナチス占領下を生き抜いたヨハンナの、自身の可能性に賭けた非凡な生涯を描く『記憶と夢』。ふたりの女性の波瀾の旅路に思いを馳せながら、ゆったりと午後のひとときをお過ごしください。

『カルメン・ミランダ:バナナが商売』 14:00-、19:00-(2回上映)

『カルメン・ミランダ:バナナが商売』

山形国際ドキュメンタリー映画祭 ’95 インターナショナル・コンペティション上映作品

監督:ヘレナ・ソルバーグ/ブラジル、アメリカ/1994/92分

作品紹介:

ラテンアメリカの伝説的パフォーマー、カルメン・ミランダの人生を綴る。ポルトガルの田舎で生まれブラジルで育った彼女は、まずブラジルで人気を獲得し、その後ハリウッドに進出し国際的旋風を巻き起こした南北アメリカの架け橋的存在であった。しかし富と名声を得れば得るほどミランダは自分のアイデンティティや人生そのものを失っていった。完璧なマスクの下に隠されたミランダの素顔を知る者はいない。彼女の真実に迫るべく、彼女の出演したテレビ、映画、インタビューなどを集大成した。

 

『カルメン・ミランダ:バナナが商売』

 

『記憶と夢』 15:50-(1回上映)

『記憶と夢』

山形国際ドキュメンタリー映画祭 ’95 インターナショナル・コンペティション上映作品

監督:リン=マリー・ミルバーン/オーストラリア/1993/58分

作品紹介:

ヨハンナというチェコ女性の生涯を綴った作品。幼少時代はプラハで過ごし、チェコスロバキアでは初めての女性モーターサイクル・レーサー、そしてジャーナリストとして活躍したヨハンナ。ドイツがチェコを占領した第2次世界大戦で恋人は殺害され、ヨハンナ自身もユダヤ人ではなかったが強制収容所に入れられた。収容所から出て映画のエキストラとして働いた後、チェコスロバキアからオーストラリアへの亡命を図った。単なる事件の羅列ではなく、憂鬱な記憶の中で彼女が抽象的な旅をする様子をドキュメンタリー、フィクション、アニメーション、実験映画の要素を織りまぜて収めている。

 

『記憶と夢』

 

[会場]山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー試写室
[料金]鑑賞会員無料(入会金・年会費無料)
[主催]認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭
[問い合わせ]電話:023-666-4480 e-mail:info@yidff.jp

 

「ヤマガタ映画批評ワークショップ in ジョグジャカルタ」より『Seeking Justice for Lakardowo』批評(Adrian Jonathan Pasaribu さん[講師])【英文】

山形国際ドキュメンタリー映画祭で行われている「ヤマガタ映画批評ワークショップ」。映画祭というライブな環境に身を置きながら、ドキュメンタリーという切り口から、映画について思考し、執筆し、読むことを奨励するプログラムとして好評を博してきました。今回、この批評ワークショップがインドネシアのジョグジャカルタで開催されました。「ヤマガタ映画批評ワークショップ in ジョグジャカルタ」より、Adrian Jonathan Pasaribuさん(講師)による批評をご紹介します。英文のままの掲載となること、ご了承ください。

For the Few, Not the Many: Linda Nursanti’s Seeking Justice for Lakardowo

Adrian Jonathan Pasaribu(講師)

One might live without hope for a week, but one could not live without water for a day. Lakardowo, a small village in East Java, has been surviving without both for years. Seeking Justice for Lakardowo (Lakardowo Mencari Keadilan), a debut feature by Linda Nursanti, documents another episode of the masses being violated by the classes in Indonesia. The message is clear: in the struggle for public welfare, the privileged few has the law on their side.

The film makes no disguise of its political stance. From the very first minute, the screen belongs to the oppressed. Sama’ati, a middle-aged woman, complains about the chemical substance that’s been polluting the water in her village—it’s hot and toxic to the skin. Minutes later we see a man, Suhan, criticize how PT PRIA—the evil big corporation of the story—dump its waste on the village and bury the poison underground. In total, the filmmakers recorded statements from more than fifty people, with half of them coming from the dwellers of Lakardowo. With the film lasting around sixty minutes, that amounts to almost one person per minute.

Among the myriad noises, Sutamah takes the central stage, at least for the early half of the film. Through the roles she serves in the story, we witness the anatomy of collective struggle that unfolds throughout the film. At the beginning, we see her with her family, in her morning routines preparing her daughters who are about to go to school. Then we walk with her around the farming grounds, as she narrates to the camera about the development projects in her village, and the itchy skin that her people has been suffering due to the improper waste disposal of PT PRIA.

Gradually, toward the latter half of the film, Sutamah blends with the masses. We see her among her people—collecting donations, cajoling and consolidating her peers. Then many other characters flood the screen. We see Sutamah’s peers staging demonstrations, presenting data to the government, providing further explanations to the camera about the debacle. As the film progresses, the film is less about Sutamah and more about Lakardowo as a community in distress.

Lakardowo plays like a Kafkaesque nightmare. Throughout the film, we see the villagers stumble from one meeting to another meeting, from one demonstration to another demonstration. For every step forward the villagers made, the bureaucracy forced them to take two steps back. For every data they presented, the government and the corporation doubted them with their own set of data. In the end, there is no distance left to run—a political cul-de-sac.

Sure, Lakardowo could be very overbearing in its message, that one might easily dismiss the film as a typical social-justice-warrior documentary. To be fair, the film does bear many tropes of political documentary in Indonesia. Scenes of children crying, check. Shots of protest banners, check. Protest songs playing over montages of demonstration, check. On-screen texts with fist-pumping messages about social justice, check.

For years, since the regime-toppling events of 1998 Reformation, political advocacy has been the raison d’être of the Indonesian documentary scene. Very little of the nation’s documentaries are personal. The preoccupation is with the social and Lakardowo is no different. What makes Lakardowo worth noting, especially in Indonesia’s current political climate, is its portrayal of the power relations. The filmmaker puts great care to humanize the oppressed villagers, and delve deeper into the structure of power in the region and how it influences the struggle of the masses.

Political documentaries in Indonesia tends to oversimplify social conflicts into two points: the victims and the state. Such narrative usually puts great emphasis on the number of people affected and declares that the state is responsible for them. Consequently, most documentaries about social conflict in Indonesia boil down to the absence of the state, yet fails to investigate how the power structures and their relationships to the people allow such tragedy to occur in the first place. Romanticizing the state, or its absence, is not only misleading but also socially irresponsible.

Lakardowo treads more carefully, more patiently. The filmmakers accompanied the villagers in every ring of bureaucracy they must went through, from local, regional, to national government. In every meeting, the villagers repeated the same data over and over again. It only led to the government suggesting more field investigations, that in turn incited more public protests. In one of the protests, the filmmakers managed to record the villagers negotiating with the police, which in turn threatened the village head. “Do you want your village to be safe or not?” said the authority. Moments later, the crowd dissipated.

Such subtle moments make the message of Lakardowo not only relatable, but also relevant. The state is never one coherent structure of power. Inside it lies a complex ecosystem of power struggles, which presents an endless and repetitive maze for the people who seek justice. By mapping the power relations within the state bureaucracy, Lakardowo makes the rebuttal of the villagers’ protest by the corporation even more powerful. There is one scene in the middle of Lakardowo where the villagers observed PT PRIA factory from their village. They are only separated by several meters of land and a wall. Yet, the villagers must go through several layers of state bureaucracy just to meet the corporation’s representatives and face a political dead-end.

Given the history of human rights violations in Indonesia, one might anticipate the people’s eventual failure, but the film’s narrative had done enough to contextualize the audience with the struggle. The film’s message feels earned, rather than imposed by the filmmakers, which is usually the case with other films of its like.

Lakardowo might never win any award for its artistic merit. Indeed, the most obvious criticism we could address to the film—and most political documentaries in Indonesia—is the awfully basic and rather blurry camerawork it employs. Lakardowo’s greatest strength lies not in beauty, but clarity. In the age of post-truth that we live in, that is more than enough.

 

「ヤマガタ映画批評ワークショップ in ジョグジャカルタ」より『In the Claws of a Century Wanting』批評(Chris Fujiwaraさん[講師])【英文】

山形国際ドキュメンタリー映画祭で行われている「ヤマガタ映画批評ワークショップ」。映画祭というライブな環境に身を置きながら、ドキュメンタリーという切り口から、映画について思考し、執筆し、読むことを奨励するプログラムとして好評を博してきました。今回、この批評ワークショップがインドネシアのジョグジャカルタで開催されました。「ヤマガタ映画批評ワークショップ in ジョグジャカルタ」より、Chris Fujiwaraさん(講師)による批評をご紹介します。英文のままの掲載となること、ご了承ください。

Marine Metropolitan: Jewel Maranan’s In the Claws of a Century Wanting

Chris Fujiwara(講師)

A sheet of multicolored fabric, pulled across a wooden post, forms a slanted ceiling. Under it, a woman and a small boy gaze out at a thin triangle of crepuscular sky. In this hallucinatory image near the beginning of Jewel Maranan’s In the Claws of a Century Wanting, the ceiling might be a sail, the dwelling a raft, and the mother and son navigators embarked on a voyage. Sea and land mingle in the world of the people of the film, residents of the seaside slum of the large container port of Tondo, Manila – a community to which Maranan devoted an excellent previous documentary, Tondo, Beloved: To What Are the Poor Born? (2011).

Inside the residents’ dwellings, Maranan catches peculiar haphazard framings created by their jerry-rigged interiors – how glassless windows reveal skies like Turner paintings or let in glimpses of some ongoing irrelevant movie of purposeful human activity. The world of the community is in flux: walls rustle or rattle, or (if of cement) will soon be knocked down. The government wants to get on with a large-scale construction project – the “claws” of which (to use the word of the title), menacing giant cranes, are the first things seen in the film – and has slated the area for clearance. Though presented to the Tondo residents as a benefit, relocation appears likely to worsen their lot, since they will be obliged to pay off government loans for their new housing, whereas as squatters in Tondo they live rent-free. At a meeting where they are told about the relocation, a group of mostly female listeners offer a tableau of silent faces to the camera, each expressing a personal variation on the theme of So-how-are-they-going-to-screw-us-this-time.

Mostly female: in the community as Maranan depicts it, there are men, too, but they are passive, unwilling to talk, sometimes hardly mobile. Preoccupied with television and eating, they have surrendered initiative to the women; the adult males with fight in them must have all fled or been taken away. Perhaps one way to read the enigmatic title is to think that the next century will be a century of women. In any case, Maranan makes it clear that for her, the women of Tondo are not victims, but the heroes of the film. One woman, told that her application for relocation will be disapproved if she can’t present a house for demolition when the wrecking crew comes, gets up and exclaims: “Disapproved? I’ll go berserk before the chairman.” Maranan immediately cuts to something else; the anti-sentimental cut makes of powerlessness a political stance, a potential suspended in non-realization.

By the term “form of life,” Giorgio Agamben designates “a life that cannot be separated from its form,… a life­­­­­­­­ – human life – in which the single ways, acts, and processes of living are never simply facts but always and above all possibilities of life, always and above all power.”1 Determined to show the life of her heroes in just this way, as pure form and possibility, Maranan finds in this life an essential innocence. The people of Tondo are engaged only with their own existence, with the few things they own and the materials they can salvage and sell. They hurt no one; they don’t even expect anyone to help them, although they know they need and deserve help.

Amid the turbulence of their lives, a stability is affirmed – in the human gesture as the expression of a will to focus, to hold something. This gesture takes various forms: the calm of a midwife during the endless minutes before a childbirth; the intentness of the pregnant woman as she lights a candle. Because of this gesture we are forced to say that these are not people who are adrift, who belong nowhere, and who are simply subject to being moved around at the will of the powerful.

The unattributed epigraph to In the Claws of a Century Wanting reads (in the English subtitles’ translation of the Tagalog text): “For is it not true that the times have a mind, and all that lives a time is lived by this time, too?” This impersonal consciousness that apprehends, thinks, and expresses itself through the beings that compose it is the subject of the film, and the film is this consciousness before it is anything else – before it is, say, a narrative of events that succeed one another as causes and effects. The continuity of the film is almost entirely the work of the soundtrack, an oneiric tapestry of offscreen speech and noise, whereas the images are fragmentary and self-contained. Unlike the brightly colored city of containers, which Maranan films in extreme long shot to show its abstract nature, the scenes of the Tondo dwellers never connect up into a total space: each image retains the singularity of a moment that was lingered over and that has been preserved.

Maranan is one of the documentary filmmakers (with the Pedro Costa of In Vanda’s Room and Colossal Youth or the Wang Bing of Three Sisters, for example) who prove that to document is not something instantaneous and impulsive, but an act that gains in intensity over the time that it takes. In the continuity of the fragments she captures, Maranan evokes such a strong and precise sense of human freedom that it’s possible to believe that the heroes of her film are equal to the struggle with catastrophe that continues to be their everyday life.

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  1. “Form-of-Life,” in Means without End: Notes on Politics, trans. Vincenzo Binetti and Cesare Casarino (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2000), p. 4.

5月24日の金曜上映会〈YIDFF 2017 アンコール 14:自画像/章梦奇(ジャン・モンチー)〉

5月24日の金曜上映会〈YIDFF 2017 アンコール 14:自画像/章梦奇(ジャン・モンチー)〉

今回の金曜上映会はパフォーマーでもある章梦奇(ジャン・モンチー)監督による実験的な2作品をお届けします。中国の産地の小さな村で7人の子どもをもうけ、厳しく貧しい苦難の人生を送ってきた老女と、若い女性の生活を描く『自画像:47KMに生まれて』。大学を卒業したばかりの監督が世代間の対話を試みる『三人の女性の自画像』。女性たちの生活に寄り添ってきた章梦奇(ジャン・モンチー)監督の眼差しをご体感ください。お待ちしております。

『自画像:47KMに生まれて』 14:00-、19:00-(2回上映)

『自画像:47KMに生まれて』

山形国際ドキュメンタリー映画祭 2017 アジア千波万波上映作品

監督:章梦奇(ジャン・モンチー)/中国/2016/102分

作品紹介:

中国の山地の小さな村の風景のなかに老女と若い女性の生活を描く。老女は7人の子どもをもうけ、厳しく貧しい苦難の人生を送ってきたことを語り、腰を曲げて歩く姿が延々と映される。若い女性は学校のこと、働きに出たこと、ボーイフレンドのことなどを語る。監督自身と老女が手を組み合わせたり、女性たちが身体を動かすパフォーマンスを行ったり、若々しい実験も試みている。乾いた風景の映像に、監督の親しみあふれる視線が心にしみる。

 

『自画像:47KMに生まれて』

監督のことば:

本作は「自画像シリーズ」の7作目で、私がこの「47キロ」と定義している村に来て6回目の冬に作った作品です。6度目の冬で、私はこの村の孤独、没落そして死を目にしました。にもかかわらず、なぜまたこの場所に帰るのか、私は自問しました。21歳のある女性は、この冬第二子を出産しました。ひとつの新たな生命は、この村に「生」の兆しをもたらすでしょうか?

新しいお母さん、年を重ねたお母さん、彼女たちは私に、生存すること、育むことを訴えかけます。汗と涙が集まってできた川は、とめどなく流れ続けます。この死にかけた土地でも、生命力は依然として強烈な輝きを放っているのです。その流れる川の前で、私は沈黙しません。

章梦奇(ジャン・モンチー)

 

『自画像:47KMに生まれて』

『三人の女性の自画像』 16:10-(1回上映)

『三人の女性の自画像』

山形国際ドキュメンタリー映画祭 2011 アジア千波万波上映作品

監督:章梦奇(ジャン・モンチー)/中国/2010/75分

作品紹介:

大学を卒業したばかりの23歳の監督は、一緒に暮らす母と祖母に反発しながらも、世代間の対話を試みる。結婚や出産、女として当然視されることに、怒りや疑問を投げつけながら、真実の愛を模索する。女であることの愛と憎しみを自身のみならず、母や祖母からも絞り出すパワーが炸裂。パフォーマーでもある監督は、自身の肉体に母の映像を投影する表現を用い、失恋をバネに、画面からはみ出さんばかりに、思い切りシャウトする。

 

『三人の女性の自画像』

監督のことば:

今年、私は23歳になった。女性がお腹に夢を宿す年齢だ。しかし、私たちは自分の夢を大切に育てながらも、他の2人の女性の夢も自分の肩に背負っていかなければならない。本作は、自分自身を探すことから始まった。そこから母親、彼女の母親の人生を探求することへと続いていき、異なる時代を生きた3世代の女性たちの体に流れる血を辿った。抑圧的な結婚生活に苦しんだ祖母は、母には美しく完璧な結婚を望んだ。母もまた結婚の犠牲者になると、今度はその希望を私に託した。結婚はすべての少女たちの夢かもしれないが、その夢を殺す犯人でもあるのだ。

章梦奇(ジャン・モンチー)

 

[会場]山形ドキュメンタリーフィルムライブラリー試写室
[料金]鑑賞会員無料(入会金・年会費無料)
[主催]認定NPO法人 山形国際ドキュメンタリー映画祭
[問い合わせ]電話:023-666-4480 e-mail:info@yidff.jp

「ヤマガタ映画批評ワークショップ in ジョグジャカルタ」より『Solving My Mother』批評(Vema Novitasariさん)【英文】

山形国際ドキュメンタリー映画祭で行われている「ヤマガタ映画批評ワークショップ」。映画祭というライブな環境に身を置きながら、ドキュメンタリーという切り口から、映画について思考し、執筆し、読むことを奨励するプログラムとして好評を博してきました。今回、この批評ワークショップがインドネシアのジョグジャカルタで開催されました。「ヤマガタ映画批評ワークショップ in ジョグジャカルタ」より、Vema Novitasariさんによる批評をご紹介します。英文のままの掲載となること、ご了承ください。

Order in Chaos: Ieva Ozolina’s Solving My Mother

Vema Novitasari (Indonesia)

A man looks worried, stuttering sometimes, claiming his current condition is “because of my mother.” In a room that almost looks like a garbage dump, with trash and coins scattered all around, Solving My Mother introduces us to Raitis, a gifted 32-year-old Latvian mathematics scholar facing a hard time getting through his adulthood. While other men of his age are married already, Raitis has problems getting along with women. Solving My Mother follows Raitis’s struggle to resolve his difficult relationship with his mother, Silvija.

Solving My Mother begins by indicating Raitis’ hoarding disorder, but as the camera reveals more aspects of his life, hoarding proves to be not the only problem Raitis is facing. While other people in the frame seem relaxed, Raitis makes awkward gestures, speaks fast, stutters, has difficulty maintaining eye contact, and barely seems comfortable. The camera approaches Raitis in a calm and patient manner, inviting an intimacy that Raitis never seems ready to accept.

As if intentionally making a contrast, the filmmaker cuts directly from the scene of Raitis’s hoarding in his room to the introduction of Silvija. A single mother of two sons who left her professional career to take care of Raitis and his brother, Maris, Silvija seems more balanced than Raitis. She speaks of him smilingly, and the tone of her scenes is warm. Her brown blouse well-suited to her hair colour, in a room with warm lighting, she is portrayed as a responsible and loving mother. Again and again throughout its first three quarters, the film reveals the contrasting convictions of Raitis and Silvija. Raitis blames Silvija’s rude and pushy behavior and her threat to commit suicide for his inability to get along with others. But it is questionable if Silvija is actually responsible for Raitis’ condition.

Irony is the main feature of Solving My Mother. Raitis desperately files a report to a local police station to “tell my mother to stay away and not shout at me again.” At such a level of desperation, asking the authorities to back him up to solve a domestic problem, Raitis’s own power compared to Silvija’s becomes obvious. Probably the best response to such a request from an adult man would be smirks and awkward laughter.

More irony is apparent in the ensuing Easter holiday scene. While continuing to argue, Silvija insists on painting Easter eggs; she tries to bring the family together while at the same time she shouts stubbornly at them. Whereas earlier the film has followed Raitis and Silvija separately and listened to each of them individually, now the opposing sides are in the same scene, shot in a way that feels similar to a reality show. The camera angle feels like peeking, as it now captures more sensitive and crucial matters than just hoarding and awkward gestures.

For at least 45 minutes, the focus on Raitis-versus-Silvija feels quite frustrating. As the film widens out and steps back a certain distance to add more of a sense of irony, it becomes clear that, despite the title, nothing has been “solved.” The best way to approach Solving My Mother is probably to see it through the concept of order in chaos. Through this basic idea, Henri Poincaré proved that some problems have no analytical solution. No fixed patterns or mathematical reasoning allow us to explain or predict the weather, stock markets, and various kinds of natural changes. The universe is never smooth, but rough, twisted and intertwined. These qualities are the essence of how a thing is.

Raitis’s obsession with order and solving his problems has to be measured against the reality that not every chaos should be answered by order and completion. Such a viewpoint is also found in Hirokazu Koreeda’s films. Frequently, his depiction of reality provides no solutions. In After the Storm, Koreeda introduces us to a single father’s difficulties in supporting his child while he longs for his ex-wife. The storm mentioned in the title brings no definitive resolution to the conflict. The hero’s gambling on lotteries is like Raitis’s meetings with his psychiatrist: in both films, opportunities and struggles fall into nothing.

Solving My Mother somehow provides a liberating experience in reminding us how irony, failure, complexities, and unpredictable results exist as things to be accepted. The film does not bother to offer any encouragement or to harmonize the absurdity of life, instead providing a sharp depiction of how humans make decisions and react to situations. The lack of solution makes the film very moving in its absurd and raw approach to capturing reality.

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