2013年10月14日(月)
於:山形美術館5(3F)

10月14日の午後、阿部マーク・ノーネス、斉藤綾子、ブライアン・ウィンストンの3氏をパネリストに迎えディスカッション「6つの眼差しと〈倫理マシーン〉」が開かれた。映画製作者と被写体との関係性を鋭く問う7作品(『ゆきゆきて、神軍』、『レイプ』、『キャットフィッシュ』、『北京陳常村の人々』、『被写体』、『戦う兵隊』、『糧なき土地』)の上映を踏まえての企画である。

ディスカッションでは、2時間半に渡って、ドキュメンタリー映画における6つの「世界に向かっていく眼差し」:①〈介入する眼差し〉、②〈人道的な眼差し〉、③〈プロフェッショナルな眼差し〉、④〈関係性の眼差し〉、⑤〈無力な眼差し〉、⑥〈危機にさらされた眼差し〉に関して――後半はフロアをも交えつつ――熱い議論が交わされた。会場で展開された議論の全てについてここで言及することはとうていできないが、以下にその一端をご紹介することとしよう。

出だしがなかなかスリリングであった。まず、この映画祭の特集プログラム・コーディネーターで司会でもある阿部マーク・ノーネス氏が、今回のテーマについてどう思うかを斉藤綾子氏(映画理論研究)に問うかたちで議論を始めようと試みた。しかし、斉藤氏は、そこでいわれている「マシーン」、「眼差し」の意味するところがよく分らない、と企画意図そのものについてノーネス氏に問い返す。

どうやら、カメラという記録マシーンを介して被写体に(引いては観客に)眼差しが向けられるとき、その眼差しの中に入り込むもの、それがノーネス氏の考える映画作家の「倫理」の出発点らしい。そしてそれ以前に、「マシーン」、「眼差し」といった言葉をかかげることで、この映画祭に集う観客にドキュメンタリーについて考えるきっかけをもってもらうことがノーネス氏の目的であったと。こうして、以降、より具体的な上記6つの視線(この区分は便宜上のものであろうが)に関するパネリストの考えがそれぞれ示され、議論は深められて(というよりは広げられて?)いった。

もう一人のパネリスト、著名な映画研究者でドキュメンタリー作家でもあるブライアン・ウィンストン氏は、自身の経験を踏まえつつ、また具体的な作品(例えば、飛び降り自殺者を撮影したエリック・スティールの『ブリッジ』)や事例を取り上げつつ、もっとも精力的に持論を展開した。氏はフロアとの対話を通じて、最終的には「誰のために」映画が作られているかが問題となる。映画作家には常に自分が一番得をするという「原罪」をもっていると自覚すべきである。ドキュメンタリーは常に人を傷つける可能性があり、そうである以上、インフォームド・コンセントなどを通じて人を傷つけないようにするのが我々の倫理である(しかしまったく人を不愉快にさせてはいけないというわけでもない)と結論した。

パネリストの見解に対し、フロアからも多数の意見がよせられた。「眼差し」という概念から映画製作者の倫理を考えることは果たして妥当なのか。むしろ「方向性がある関係性」の問題として(例えば映画製作における契約問題を通じて)捉えるべきではないのか。あるいは、映画製作者だけでなくコミッショナーや観客との間の複数の関係性を想定するべきではないのか。さらには、映画の「絵」は、「やらせ」によるものであってもそうでなくても「美しいもの」として提示されてしまうが、それについてどう考えるべきか等々。

これらフロアをも巻き込んで活発に交換された意見は、映画製作者の倫理は(製作者の)「言論の自由」、(被写体への)「インフォームド・コンセント」、(観客の)「知る権利」という3つの要素の絡まり合いのなかで再度、問われなければならない。映画作家の「権利」ではなく、まさにフロアから出た言葉である「関係性」が問題なのであるとのノーネス氏の言葉で結ばれた。

このディスカッションの冒頭、企画者である藤岡朝子氏は、趣旨説明をするなかで、いま――とりわけ2011年の「震災以後」――あらためて映画製作者の倫理が問われていると指摘した。例えば震災後の東北に取材した一連のドキュメンタリー作品において、映画製作者たちが「被災者」にカメラを向けるときに問われるであろうような「倫理」。二年後、YAMAGATAに集う世界のドキュメンタリストたちがこの問題についてどのような答えを出してくれるのか期待したい。

取材・構成 岡田尚文