これは縄跳びをする女の子だよ/たくさんの絵がつながってるんだ/これもこれもこれもどの動きも絵なんだよ

 ゾートロープに、縄跳びで遊ぶ女の子が描かれている。回転させると、女の子は縄を回して飛び始める。ゾートロープを回しているのは、この映画の監督であるニダール・アル・ディブスの娘サルマーだ。彼女は、カメラを持つ父に向って、縄跳びをするように動いてみえる女の子が一枚一枚の静止画で構成されていることを説明している。「絵を速く動かすとこんな感じで/こういう動きになるの」。縄跳びをする真似をしながら話すサルマーが、今度はコマ送りのように身体を動かす。「でも本当はこう/そしてこう……」。

このような場面から始まる『ホームストーリー』は、内戦によりシリア・ダマスカスの住居を離れざるをえなくなったニダールが、これまでに撮影してきたホームムービーを再構成しながら、逃れた先のエジプト・カイロにある閉館した映画館「シネマ・ワハビー」の改修と再開を夢見る映画である。映画はホームムービーに記録された過去と、カイロでの現在を行き来しながら、さらにニダールがダマスカスの北にある故郷ホムスで過ごした幼少期を回想するナレーションを重ねることで、独特の時間をつくりだしている。

ニダールによって撮影されたホームムービーは、どれも素朴なものであると言っていい。机に寝そべり「フレール・ジャック」を歌うサルマー、手に絵の具をつけて、紙に跡をつけて笑うサルマー。娘に向けられたカメラのまなざしは、どれも愛情に満ちたものだ。スマートフォンで撮影されたと思われる映像は、画質が粗くいわゆる「手振れ」も激しい。しかしこうした素朴さが、それらがもう帰ることのできなくなった家で撮られた事実をさらに切ないものとしている。

カイロの映画館シネマ・ワハビーを撮影したシークエンスは、そうした切なさをさらに深めていくものだ。鉄の柵で覆われた入り口から、チケット窓口と思われるカウンターが見える。往年の映画ポスターが壁から剥がれ床に散乱している。カメラが劇場へ入っていくと、座席は埃とゴミで覆われ、剥がれた天井からカーテンがぶらさがっている。映写機らしき残骸から、フィルムが飛び出して朽ちている。ニダールはこのようなシネマ・ワハビーの様子に、幼少期を過ごしたホムスでの映画館の姿を重ねている。

閉鎖されたホムスの映画館/子供時代の唯一の名残が取り壊されるかも/シネクラブだった地下室/私の第二の我が家は/忘れ去られた/同じ構図/同じ音/同じ匂い/同じ物語/本当はシリアで撮りたかった

こうして、幼少期の映画館の思い出と、ダマスカスでの日々、現在のシネマ・ワハビー、それぞれの時間が、ニダールの編集によって交錯していく。ホームムービーのシークエンスにおいても、過去の映像はそのまま使用されているわけではない。ある日の映像の音声が、別の日に撮られた映像や写真に重ねられるような場面が幾度となく登場する。サルマーの声が、複数の映像と写真の背後で響いているようなイメージがつくられることで、過去の事実は「記録」から、ニダール自身の「記憶」として生起していく。

ここで、冒頭のゾートロープの場面を思い起こそう。映画はゾートロープを回しながらその原理を説明するサルマーの映像を用いて、映像が静止画の連続であることを示していた。しかしニダールは、映像が単に静止画の連続にすぎないことを示して、その価値を貶めているわけでは決してない。そうではなくて、それ自体では事実の記録である過去の瞬間が、本来の時間から切り離されて再構成されることで——あの縄跳びの女の子が動いて見えるように——ニダールの「記憶」としてスクリーンに表れる奇跡を提示しているのだ。帰ることのできないダマスカスの家での日々の記録が激しい切なさを伴って見えるのは、それらが事実の記録に止まらない、ニダールに固有であるはずの「記憶」のイメージとして私たちに共有されるからである。

終盤、シネマ・ワハビーの改修は中止となったことが明かされる。ニダールが映画と映画館にかけた思いは、映画館の復活という形では実らない。しかし、難民キャンプに赴いて映画について語り、子どもたちに映画の撮り方を教えるニダールは、希望を捨てていない。そのようにつくられた映画『ホームストーリー』は、中東の地からこの山形へ、私たちのもとへ届けられる。それは一つの希望であり、映画が捉えた数々の瞬間を救済することである。

映画を見終わり映画館を出ると、外はもう暗くなっている。10月の山形の寒さは、この土地に長く暮らしている私にも堪えた。つい先月までは夕方でも汗ばむほどに暑かったのに、瞬く間に秋が来た。自転車を漕いで家路を行くと更地が目に入った。長らく建物の解体工事をしていた場所で、一面が砂利できれいに整えられている。この場所にどんな建物が立っていたか、私は、まだ思い出せずにいる。

(佐藤瑞樹)