フィルムの解体と再生

ヤシャスウィニー・ラグナンダン『あの雲が晴れなくても』

ジョイス・ラム

35mmフィルムが流れるように引っ張られる。見慣れない特製の木の枠が地面に置かれていて、その枠を通過したフィルムの少し先でハサミが待ち受ける。その刃先を通すとフィルムのパーフォレーションが切断される仕掛けになっているのだ。映画愛好者にとっては非常に驚くべき振る舞いや装置ということだろうか。しかし、それは上映するためのフィルムではない。ボリウッド映画が刻まれたフィルムの一コマ一コマが、ピンク色の竹の棒に次々と挟まれていく。その棒を回すと小さなオルガンのようにガタガタと音がする。“キャトケティ”という子ども用おもちゃの製作工程だ。

キャトケティの視点を通して私たちの世界を見つめるかのような本作は、その生産地であるダシュパラというインドの小さな村へとまずは観客を誘う旅の映画でもある。ご飯を作ったり、昼寝をしたり、テレビを観るといった日常生活を送るおもちゃ作りの職人たちの現実に、赤いルビーを探し出そうとする子どもたちの虚構のストーリーが織り交ざる。

働く人たちの手と、キャトケティを作るための道具に焦点を当てる。職人たちは竹林で伐採した竹を棒状に切り取り、三日月の形をした刃物でその先に切り込みを入れたうえでピンク色に染色、フィルムを切り込みに挟んで竹の先を輪ゴムで綴じる。そうした一連の作業での職人たちの手さばきは疑いようもなく洗練されており、その作業から生じる音がリズムよく耳に響く。まるでこの村ならではの独自の「音楽」の演奏が始まろうとしているようだ。思い起こしてみると、確かに、ハエが飛んでくる音や、船が湖を通過する音、風の音など、この映画のサウンド・デザインは非常に豊かで印象的だ。上映後のQ&Aでのヤシャスウィニー・ラグナンダン監督の話を聞くと、映画に登場するボリウッド映画のフィルムに記録されたサウンド・トラックまでもが密かに活用され、本作の豊かな音環境に忍ばせてあるらしい。

一見淡々とした日常生活のなか、彼/彼女らは次々とフィルムを本来の形から変形させ、そこに新しい役割を吹き込んでいく。一方で、この映画を通して作り手は、村の住民によって素材(=物質)としてしか認識されないフィルムを、元の形態、すなわち映像(=シネマ)に戻そう(reverse)としているようにも感じられる。映画を通して度々画面上に現われる、フィルムの劣化による錆びた鉄のような模様や、フィルムを村の空間に実際に投影するシーンなど、彼女はこの村に関与しながら「シネマ」としての新たな表現まで作り出そうとしている。使用されなくなり、いったん物質になったフィルムが、新たにおもちゃ(キャトケティ)として生まれ変わり、さらにそれが映画(シネマ)への再生を果たすことで人を楽しませる力を保ち続けるのだ。