モノクロの海辺で瓦礫の中に佇む一人の女性。かつてそこにあったものに思いを寄せ、聞き手=監督の問いかけに、淡々と、しかし精一杯に言葉を絞り出す。色を失った世界で、風の音だけが彼女を包んでいる。

宮城県南三陸町の波伝谷(はでんや)地区。あの震災という出来事が起こる前から、この地の人びとの営みに長年立ち会い続けてきた監督が、人びとの震災からの1年を中心に追った映画だ。そこでは、震災後の現在はモノクロームの光と影で映し出され、震災前の波伝谷の記録=記憶は、人びとの語りをとおして、鮮やかな色彩を帯びた世界として映し出されている。あの日を境に変わってしまったものと変わらないものとが、人びとの営みの中では地続きであるということが、いきいきと、そしてまざまざと映し出されることになる。

よそ者であり記録者であると自らを語る監督は、震災後もカメラを向け続ける行いが正しいのかどうかわからないと語る。それでも回り続けるカメラは、言葉を選びながら、その選んだ言葉から溢れ出そうになる思いを抱えて人びとが生き続ける様を映し出す。そこで人びとは思いのほか正直に、「もの」を「かたる」という行為に対する葛藤をさらけ出している。その姿は、カメラの前で絞り出された言葉たちの尊さと共に、その場では語られることのなかった思いもまた、人びとの中に同じ重みを持って折り重なっているということも示しているだろう。

印象的なシーンがある。海の男たちが一堂に会した宴の席で、その中の一人が監督からカメラを奪い取り、よそ者である監督に逆インタビューする。語り手と聞き手が反転する瞬間。それは、誰かを見つめ続けることが、見つめる相手から常に問い返され、自分自身を見つめ続けることでもあるということを思い出させる。そしてそのまなざしは、映画の観客である私たちにも絶えず注がれている。物語の間にはいつも、語られなかった「ものがたり」があり、それに思いを馳せることで、観客もまた、物語の形成に深く関わっている。

映画のクライマックスであり、最もドラマチックになりうる場面、それは、震災による中止を挟んで2年越しの復活を目指す獅子舞「お獅子(すす)さま」だ。「お獅子さま」を巡って人びとの様々な「願い」が、時に言葉となってぶつかり合い、時に語られることのないまま「揺らぎ」、カメラのこちら側の監督をも巻き込みながら、無事にこの行事が実現するのかどうかというサスペンスを抱えたまま映画は終わりに近づいていく。しかし、いよいよ復活を果たすことになった「お獅子さま」は監督のモノローグのみで語られ、これまでモノクロームで描かれてきた「現在」としては画面に現れない。語られない「ものがたり」。ぽっかりと空いた穴。その穴は、映画の最後、「お獅子さま」の2年越しの復活から更に時を経て、これまでカメラの前で語られることのなかった思いと共に振り返られ、語り直されることで、豊かな色を帯びて私たちの前に現れることになる。(佐々木愛)