真実の「自分語り」――『私の非情な家』

15nac12

現代とは「自分語り」の時代であるといえるだろう。たとえばツイッターやブログを通して、私たちは日々の出来事や自身の生い立ち、怒りや悲しみを自由に表現している。もはや特別の技能や権威がなくても、個人の経験を社会に向けて発信することができる時代なのである。けれども、これだけ「自分語り」が氾濫する環境に身を置いているせいで、私たちは重要なことを忘れてしまっているような気がしてならない。それは「自分語り」の本質的な難しさだ。経験を世界に向けて物語るということは、人が考えている以上に困難な行為なのである。社会には様々な理由によって自身の身に起きた出来事を語ることのできない人々が存在している。韓国人の「イルカ」もその一人だ。

「私は洗脳されていました」――映画の冒頭で発せられる彼女の言葉が、私たちの胸に強い衝撃を与える。「イルカ」dolphinという仮名によってスクリーンに登場する彼女は、かつて父親から性的暴行を受けていた。はじめ、父親はそれをスキンシップと説明していたという。だがある日、彼女は父の行為が許されない犯罪であった事実に気がつく。家を飛び出し大学を辞した彼女は、被害者支援団体とともに父親を告訴。それは、なおも父と暮らしている二人の妹を守るための決断でもあった。

裁判となれば、イルカは自身の被害を詳細に物語らなければならない。心に大きな傷跡を残している彼女にとって、それは重く辛い行為である。にもかかわらず、法廷の証言台に立つ彼女の声は力強く、その決意は固い。むしろ周囲の人間のほうが、彼女の過去に立ち入ることに対して二の足を踏んでいる事態に私たちは気がつくだろう。たとえば、暴行されていたことを彼女が最初に相談したはずのボーイフレンドは、裁判記録が将来のキャリアに差し支えることを懸念し、みずから証言台に立つことに対して乗り気ではない。あるいはまた、初対面の占い師にまで自身の体験を話して聞かせようとするイルカを、カメラマンは慌てて制止するだろう。そんなとき、彼女は強く反発するのだ。なぜならば、彼女にとって「自分語り」をするという行為こそが、家族を救い、自身の未来を切り開くための唯一の手段であるからにほかならない。

 経験を物語るということ。そこには語る人間の意志や覚悟がともなわれている。父が嘘で塗り固めた虚構の物語と戦うために、証言台の彼女は全身全霊をこめて声を発するだろう。ある信念によって発せられる「自分語り」の力が、『私の非情な家』という作品にはあふれているのである。(村松泰聖)