《闇と光の儀式―マリア・サビーナ 女の霊》

映画を観ることは、光を見つめることであり、闇を見つめることだ。闇を見つめることは、同時に陶酔することでもある。メキシコの山奥に、マリア・サビーナという、光を見つめ、闇を見つめ、陶酔する女性がいる。彼女は、キノコや薬草を使って幻覚作用をもたらしながら、伝統的な治療をするシャーマンの女性である。貧しい環境のなかで、父を亡くし、母から自立し、夫に先立たれて未亡人となったマリア・サビーナは、幼い頃から身近に自生していたキノコを摂取することで、神と対話できることを知る。

幻覚作用のあるキノコを摂取しながら行われる儀式は、夜のみ行われる。信じること、信じるものだけが癒される、目をつむるのではない、無限の闇を見つめることだと語るマリア・サビーナは、夜にしかキノコを摂取してはいけないと何度も語る。陶酔は、昼間には起こりえない。闇という余白のもと、改めて目を凝らすことで、色彩は強くなり、音は鋭く響き、光は輝き、私たちはある種の緊張状態に置かれる。夜は、そして闇は、陶酔において偉大なのだ。日中に何もやることなくぼんやりと過ごしているひと、或いは生活のためにやりたくないことしている人にだって、夜になったら陶酔する権利があるのだと囁かれているかのようだ。

しかし私たち観客に許されるのは、映画を見つめることだけである。私たちはキノコを摂取しながら映画を観るわけではなく、暗闇に座りスクリーンの光を見ることのみ許されている。幻想的に映し出されるロウソクや、治療の儀式をしながら彼女らが身体をゆったりと左右に動かす仕草、マリア・サビーナの静かな歌い声、そういった映画内にちりばめられた陶酔させる力のある映像は、暗闇に身を置いて見つめるという行為に準じる私たちにも多少の陶酔効果を及ぼすかもしれない。しかし、いくら触れたくても、私たちは映画に触れることはできない。もちろんその場に行けるわけでもない。この映画の魅力は、作品内に「見つめる存在」が映り込むことで、本来だと受動的に見つめることしか出来ない観客が、映画に向かってぐっと親密に近づくことが可能な点である。見つめる存在とは、つまりその場所まで儀式を見学しに来た、焦点のあたることがない観客たちのことだ。マリア・サビーナは、1957年にLIFE誌でキノコ研究家のゴードン・ワッソンに紹介されたことで一躍有名になり、多くの人が彼女の元を訪れるようになった。この映画のなかでは、彼ら観客がまるで外部の異質なものであるかのように、画面の端に少しだけ映されている。暗闇に紛れ壁側に佇む彼らの横顔や足は、外から見つめることしか出来ない存在として、暗闇に座って映画を見つめる私たちと重なり合う。そして私たちは、彼らを通すことによって、見つめるということ、闇に佇むということ、そして光を見つめることの圧倒的な無力さと同時に、光のイメージと音の持つ力強さを感じることができるのだ。(石原海)